特別の教科 道徳

道徳の発問を考えるために大切な、たった1つの考え方

道徳の発問を考えるために大切なたった1つの考え方

こんにちは。
今日は
『道徳の発問を考えるために大切な、たった1つの考え方』
このテーマでお話しします。

先日、わたしはTwitterで
サザエさんの4コママンガを題材にして、
発問を考える登校をしました。

たくさんの発問があって、
視点が広がりました。
投稿してくれた方、
ありがとうございました!

その中でちょっと気になることがあったので、
今日は教材解説ではなく、
コラムをお伝えします。

道徳初心者にも、
道徳マスターにも
大切な話です。

どうぞ最後まで読んで
理解を深めてくださいね!

では、本題に入ります!

 

1 視点を限定しない

道徳の発問を考えるときに、たった1つの大切な考え方は

視点を限定せずに考える

ということです。

これが結論ですので、
「知ってるわ」という方は、
以下は読まなくて大丈夫ですよ。

もっと詳しく聞きたいという方に向けて
この後も書いていきますね。

 

■山を登る道は1つではない

登山をするとき、頂上に向かって
登山道を歩きますが、
その道は1つではありません。

近くて急な道もあれば、
遠いけどゆるい坂もあります。

頂上という1つのゴールに向かうには
いろいろな道があるのです。

道徳の授業も同じです。
ねらいという頂上に向かって
議論という登山道を歩きますが、
その道は1つではありません。

この部分を勘違いする人が多いです。
「あらかじめ立てた授業計画から
大きく外れてはいけない。」と考えて
登山道を1つしか決めない。

これでは子どもは、
道徳的価値に向かって話し合いをするのではなく
教師の持っている答えに向かって
話し合いをすることになります。

正解がない道徳、と言われているのに、
教師のほしい答えが出ると
「正解!」と言っちゃうんですよね。

それは本末転倒です。

 

発問の視点を限定しないことで、
子どもは登山道を自ら見つけ出します。

その歩みが、ときには頂上に向かっていないかもしれません。
複数に分かれて歩いてしまっているかもしれません。
しかし、「頂上にたどりつく」というゴールは
子どもはよく認識しています。

安心して、子どもの議論の行く末を見守りましょう。

議論の手綱を常に教師がにぎっているのは、
子どものことを信用していない教師のすることです。

 

■子どもが既成概念から抜け出せない

なぜ、発問を考える際、視点を限定せずに考えることがよいのでしょうか。
それは、「子どもが既成概念から抜け出せない」からです。

例えば、「家族愛」について授業をするとします。
「この家族はいい家族ですか?」
「家族を結んでいるものはなんですか?」
などと家族を軸にして発問を考えるのは、
当然ですね。

しかし、これだけでは危険です。
なぜか。
「家族」についての概念は、
子どもによって違うし、
その個々の概念をもとに考えるからです。

「家族って・・・」と考えるとき、
もとになるのは当然ですが自分の家族です。

自分の家族像をもとに考えることは大切なのですが、
「広がり」という点では
もうちょっと手立てがほしいところです。

例えば、先ほどの発問に加えて、
『幸せなのはだれだろうか?』
と発問するとします。

自分のもっている家族像を
発問によって新しい視点で考えることができます。

この新しい視点は、
発問によって生まれます。

教師が、ナナメ上の角度から発問をすることで、
子どもの既成概念が壊れ、
定義の再構築と、視点の広がりにつながるのです。

 

■まとめが広がる

当然ですが、発問によって
子どもの考えが広がれば
意見は多様なものになります。

すると、まとめの視点も広がり、
授業前には知らなかったことが
まとめとして加わります。

小学校の道徳の授業で
授業前に知っていることを45分かけて確認する、
そんな授業がとても多いことを私は危惧しています。

それは、道徳嫌いを作り出すことになるし、
道徳をする教師も「つまらない」と感じるからです。

あなたの授業を見返してみましょう。

そのまとめは、授業前に子どもが気付いていなかったことですか?

本当にそうですか?
教師が勝手にそう思っているだけではないですか?

 

2 例

もう少し具体的に例をあげます。

■勇気の例

「桃太郎」を例に考えます。

「桃太郎」で『希望と勇気、努力と強い意志』の授業をします。
このとき、どんな発問を考えますか?

と聞かれた、どう答えますか。

○桃太郎は、勇気があると言えるのだろうか。
○犬・猿・キジは桃太郎と同じぐらい勇気があるだろうか。

などの発問が考えられるでしょう。

しかし、これではまだ甘いです。
なぜなら、「勇気」に気付かせるという目的にしばられて、
「勇気」という言葉を発問に入れてしまっているからです。

これでは、子どもたちに暗に「勇気以外は考えないように」という
メッセージを送ってしまっているのです。

「多面的・多角的な見方」が大切だと言われているのに、
勇気という視点1つで授業を貫くのは、
ねらいに即していません。

授業はやりやすいでしょうが、
面白さはゼロでしょう。

 

視点を限定しない発問なら、例えば

○桃太郎は、犬・猿・キジがいなくても鬼退治に行っただろうか。
○鬼はなぜ降参したのだろう。
○桃太郎は宝がほしいから鬼退治に行ったのだろうか。

などなど、
「え?」「あれ?」「ん~~???」
と思わず言ってしまうような発問でないと、
子どもの視点の広がりは期待できません。

分かっていたつもりだったけど分かっていなかった、
そんなこと考えたこともなかった、
という境地に子どもを連れて行かなければ、
いつまでも道徳は、
子どもにとっても教師にとっても、
面白くない教科に君臨し続けます。

 

■親切の例

続いて親切です。

電車の中で、男の子がお年寄りに席を譲ろうとしたけど、
「わたしはまだ年寄りじゃない!」と怒られた。

こんな話があったとします。
この話で「親切、思いやり」について授業をするとき、
どんな発問を考えますか?

先ほどの例のとおり、
「親切」というワードを発問に入れいているうちは、
まだ甘いですね。

あなた自身が、視点を限定して考えているので
子どもの考えは広がりません。

例えば、

○この話にタイトルをつけるなら?
○お年寄りの一番怒っていることは?
○レストランだったら怒られなかった?
○男の子は次、同じことをする? しない?

と、一見授業の本質と関係ないようですが、
これは親切を多角的に見ていることになります。

これまで自分が思っていた親切という概念を、
発問によって多角的に見ているのです。

 

はい、ということで、今日は
『道徳の発問を考えるために大切な、たった1つの考え方』
このテーマでお話ししました!

 

またTwitterで発問考える投稿するので、
いっしょに脳に汗をかきましょう!

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