こんにちは。
今日は「道徳の授業は計画的にしてはいけない!」
このテーマでお話しします。
道徳の授業って難しいとよく言われます。
心を考える教科ですが、心の中は見えないし、いくらでも建前で語ることは可能です。
「正解はない」とよく言われますが、じゃあそれで「自由にやっていいんだ」とは思えず、正解がないからこそ、授業をどう組み立ていいか迷ってしまいます。
そんな悩みを解決する記事がこの記事です。
この記事では、次の方を対象にお話しします。
この記事の対象
・道徳の授業が苦手
・道徳の授業がうまくなりたい
・道徳の授業があると毎回、ゆううつだ。
では、本題です!
1 道徳は計画的には進まない
2 子どもの世界に身を委ねる
3 そもそも計画は案
4 できないときは?
1 道徳は計画的には進まない
そもそも、道徳は計画的にはすすみません。「そんな教科だ」と考えを変えてください。
算数の計算や、漢字、社会の調べた結果のように、明確に正解があるわけではありません。
本質的に気付かせたい価値はありますが、それは特定の言葉で表現しなくてもいいんです。
だから、「正解がない」と言われるんですね。
例えば、「親切」という言葉も、いろいろな言い方ができます。
優しい
いい人
思いやりがある
気遣いができる
気が利く
いいことをする
人の役に立つ
これらは全て、「親切」のことを言っていますが、親切という言葉は出てきていません。
でも、ざっくり「親切」のことを言っているとわかりますよね。
言葉1つでも、思ったとおりのことを子どもが言ってくれるとは限りません。
ましてや、発問の答えは、教師の予想を大幅に超えてくることがいつものことなのです。

「じゃあどうすればいいんですか?」
道徳は計画どおりにはいかないものだ、と考えましょう。
それだけで、グッと楽になります。
想定外の意見が出てきたら、またそこから板書を消してやり直したり、その場にあった発問を考えればいいのです。
2 子どもの世界に身を委ねる
その時に大切なことがあります。
子どもの世界に身を委ねることです。
どういうことかというと、子どもの発言をよく聞いて、子どもに「どういうことかわかる?」と聞いたり、「それってどういうこと?」と他の子に聞いたりして、子ども同士の発言をつなげていくのです。
教師は、ファシリテーターですね。
教師はそこに口出しをしません。
子どもの意見の流れが本筋とずれてもそのままファシリテーター役に徹して、子どもの思考の流れがどうなるか見守ってみるんです。
どうしても教師が口を出して、こちらがねらいとする流れに戻してしまいたくなりますが、そうなると子どもはせっかくノッてきたのに、意見が出にくくなる可能性があります。
例えていうなら、子どもの意見が火だとします。
教師は口出しをして水を注いて火を小さくするのではなく、「どういうこと?」と『もっと教えて!』という気持ちで子どもの意見を引き出す、まるで火に油を注ぐようなイメージですね。
子どもは認められると、どんどん発言します。
また、時々発せられる教師の発問を真剣に考えます。
そんな授業、面白そうじゃないですか?
教師は授業の手綱を常に握っておかなければならないわけではありません。
子どもの意見を引き出すことに徹して、子どもの意見の流れに身を委ねてみると、とっても面白い発見がありますよ。
「へ〜! なるほど!」と心から言ってしまう瞬間がきっと訪れます。
3 そもそも計画は案

計画どおりにいかないなら、授業計画はいらないということですか?
いえ、そうではありません。
計画は必要です。
計画を立てることは必要ですが、それに縛られすぎないことが大切なんです。
計画があるから、授業の最初や中盤、後半が見通せます。
計画があるから、授業をデザインできます。
表があるから裏がある。
光があるから闇がある。
それと同じように、計画という基本があるから、応用があるんです。
これまでと同じように計画は立ててほしいですが、それにこだわりすぎないようにしましょう。
せっかく立てた計画が「ちがう」と気づいた時はショックですが、大切なのは「自分が一生懸命考えた授業計画通りに授業をすること」ではなく、「子どもに考える力をつけること」ですよね。
手段が目的にならないように、計画は時に全捨てする覚悟も必要です。
4 できないときは?

そんなこと言ったって、そんな難しいことはできません。
確かに、授業中に計画が「ちがう」と思ったら、すぐに板書や発問を組み立てるのは難しいですよね。
でも、勘違いしてませんか?
授業は教師1人で作るものではありません。
子どもがいるじゃないですか!
「このあとどうやって黒板に書いたらいいと思う?」と聞いたり、子どものノートやワークシートを参考にしたら、板書は一から組み立てられるかもしれません。
また、発問は「新しい視点を常に与える」ではなく、子どもの発言を深くしていくという考え方で見ると、いくらでも発問は作れます。
例えば次のとおりです。(T:教師、C:子ども)
C:思いやりは、どんどん渡されていくと思う。
T:え? どういうこと? 詳しく言える人?
C:思いやりは、次の人へ、次の人へと渡されていくんだと思います。
C:リレーのバトンみたい。
T:なるほど、思いやりはリレーのバトンなんですね。
T:じゃあどうやったらバトンを渡したことになるの?
C:それはね・・・
このように、子どもの発言を足がかりにして、発問を作っていくのです。
赤字のところは、全て発問です。
「発問をつくる」とは、大それたことをする必要はなく、子どもの発言をもとにして考えていけば自然と生まれてくるのです。
はい、ということで今日は、『道徳の授業は計画的にしてはいけない!』のテーマでお話ししました!