特別の教科 道徳

道徳は、「書く」のが正解?

書く活動は正解?

こんにちは。
今日は『道徳は、「書く」のが正解?』というテーマでお話しします。

道徳の授業でよく話題になることがあります。

今日はこの2つについて解説します。
しかし、いずれも、私は答えは持ち合わせていません。
なぜなら、どちらも、「方法論」だからです。

私の考えを述べます。

ワークシートと道徳ノート、どちらがよいのか。

ワークシートでも、道徳ノートでも、
子どもが考えを表出することには変わりありません。
私は、5ミリ方眼ノートを「道徳ノート」として使っていますが、
ワークシートを否定しているわけではありません。

道徳ノートのメリットは、1冊にまとまるので子どもが後で考えを見返しやすいこと。
デメリットは、授業ごとにノートを回収すると、かなりの重さになってしまい、
場所をとるし、チェックも煩雑になることでしょう。

ワークシートのメリットは、逆に授業後に回収をしやすいこと。
他にも、発問を事前に書いておけるので、授業を組み立てやすいです。
デメリットは、きちんとファイルに綴じていても、
過去の学習の内容を簡単に見返すことは、やや煩雑です。

道徳ノートにしろ、ワークシートにしろ、
メリットを理解して、デメリットをカバーする方法をもっていれば、
自治体や学校・学年で決められている方法に従ってよいでしょう。

ノートもワークシートも使ったことはありません!
という方は、教科書に付属している別冊を使っているのでしょうか。
それも道徳ノートとしてカウントしていいです。
それさえも使っていないという方は、
何か子どもの学習の足跡が残る方法を用意した方がよいでしょう。

子どもに考えを書かせた方がよいのか、書かせない方がよいのか。

これは、明確に答えがあります。
「書かせた方がよい」です。
書かせないという考えの方は、
・書いている時間がもったいない
・書く活動は国語だから、道徳では省く
といった理由からでしょう。

しかし、人は考えを言語化する過程で、頭が整理されていきます。
だから大人も、忘れないようにメモをしますよね。
子どもの考えを書く活動も同じです。
自分の考えを論文のように立派にまとめるのではなく、
メモ程度だと理解しておくのです。

上手な文を書ける必要はありません。
文章の誤字や脱字をこと細かに指導するのであれば、
それこそ国語の時間でしょう。
道徳の時間は、誤字・脱字の指摘は最小限に収めましょう。

子どもは、考えを完璧にまとめて、それを文章に落とし込んでいるわけではありません。
悩みながら、でも書いてみようと書いてみて、違ったら消して、
なんとか考えを書けたけれど、なんか違う気がして、
書いている間に思考が整理されて新しい気付きが生まれて、
その気付きが考えを広げるモトになって・・・と、
モヤモヤしながら子どもは考えているのです。

その思考のゴールデンタイムを、
「早く書きなさい。」
「これとこの漢字は違うよ。」
「あと3分で書き終わりましょう。」
と先生に言われると、思考のゴールデンタイムは終わりです。
・早く書き終わらないと!と、書き終わることが目的になります。
・漢字を間違えないように。と、正しい文字を書くことが目的になります。

道徳の時間は、これら思考の寄り道をできるだけ省き、
子どもの思考のゴールデンタイムを大切にしたいものです。

そのために、私は書く活動は必須だと思っています。

クラス全員に、完璧な文章で考えを書かせよう!
というゴールを描いている方は、きっと時間が足りないでしょう。
そもそもそんなゴールは到達しないので、
机間指導をして子どもの考えを先生が助言して仕上げたり、
ペンが進まない子に書くように促したりして、
「無理矢理まとめた考え」ができあがるだけです。

それは、教師の自己満足の授業であり、
子どもはそこに、道徳の本質的な面白さや魅力を感じることはできません。

では1つの授業で書く活動はどのぐらい入れるのか。
それは明確な答えはありません。
強いて言うなら
「必要に応じて書く活動を設定する」
でしょうか。

1つの主発問について考えを書かせよう。

こう思っていると、例えば主発問の後に議論が広がり、
主発問よりも面白い考えが出てきそうな発問があったら、
どう思いますか。
子どもの考えを聞いてみたいと思いませんか?

逆に、主発問の書く活動も、
書く必要がないぐらい話し合いが盛り上がること、
ありませんか?

書く活動は、設定することが目的ではありません。
あくまでも方法です。

・書く活動を設定しないといけない。

こう思っている人は、
方法が目的の思考になっているので、注意が必要です。

そうではなく、
・書く活動で、子どもに○○という価値に気付かせたい。
と考えるべきでしょう。

この
方法が目的になっている
ことは、私は以前は理解できませんでしたが、
今なら分かります。
以前の私も、方法が目的になっていました。

例えて言うなら、
目的地のない旅に出るようなものです。

「飛行機に乗る」という方法が目的になると、
乗っただけでゴールになってしまいます。
でも、旅行はそうではないですよね。

北海道に行く!と目的があって、
「飛行機に乗る」という方法を選ぶわけです。

道徳の書く活動も同じです。
書く活動を設定するだけでは、
「飛行機に乗る」というゴールを立てているだけです。
書く活動を設定することで、何を達成したいのですか?
飛行機に乗って、どこに行きたいですか?

この部分を考えてみると、
書く活動の在り方自体を自分なりに考え、
自由自在に使えるようになるかもしれません。

 

はい、ということで、
今日は『道徳は、「書く」のが正解?』
というテーマでお話ししました!