こんにちは。
今日は『道徳のイイ板書づくり4つのポイント』というテーマで
お話しします。
道徳の板書について、最近考えることが多いです。
「こうやってすればいいですよ。」
というような方法論は、残念ながら私は伝えられません。
それは、道徳という教科の性格にあります。
同じ教材でも、子どもと授業者が違えば、
展開は違ってくるし、それにともなって板書も変わってくるからです。
ハウツーのような方法論の方が、
忙しい先生にとっては効率的にインプットできるので、
私もそうしたいところですが、どうやって伝えたら分かりやすいか悩んでいるところです。
さて、今日はその上で、道徳のイイ板書になるための4つのポイントについてお話しします。
目次です。
順にお話しします。
- 1 板書を完成させることが目的ではない。
- 2 教材、子どもの実態、授業者の納得感によって決める。
- 3 余白をあえて残す。
- 4 同じ教材でも板書は異なる。
1 板書を完成させることが目的ではない。
以前、「板書のための発問はダメ!」という記事を書きました。
道徳は、他の教科に比べてつかみ所がないと言われます。
個人の価値観が、意見の根拠となるので、
授業者は悩んで当然でしょう。
「心は見えない」と道徳を批判する言葉も、納得です。
だからこそ、視覚化できるものに意識が偏ってしまいます。
板書です。
授業者が事前に計画している板書のとおりに授業を進めれば、
見えない心を、視覚化できているので授業が進みます。
しかし、板書計画を立てると、
それを「計画を完成させよう」
または「計画から外れてはいけない」
という暗黙の了解自分ルールが出てきます。
「教師は、事前に準備した教材を全て1単位時間で使用したくなる。
それは、事前の努力を無駄にしたくないという思いと、
子どもに『先生の努力』という自己顕示をしたいからだ。」
これは、私の持論です。
教師である私も、例外なくそうですので、自戒を込めています。
板書も同じです。
事前に計画した板書は、なぜか「絶対正しい」と思ってしまい、
そこから外れる自分、ましてや子どもの意見でさえも、
ダメ!と思ってしまいます。
そこに子どもの意見が、入る余地があるはずもありません。
こうなっては、道徳は楽しくありませんね。
板書を完成させることが目的ではないとは、こういうことです。
2 教材、子どもの実態、授業者の納得感によって決める。
授業展開、発問、そして板書計画。
指導要領にも、指導書にも、よく次のようなことが書かれています。
「教材、子ども・学校・地域の実態に合わせて、柔軟に・・・」
よく見聞きする言葉ですね。
これに加えて、
授業者の納得感が道徳では大事です。
これまでの道徳では、
きまりきったことを言わせたり、登場人物の心情を追わせるだけだったり、
なんとなく道徳の授業をしている本人が
しっくりきていないような状態が続いていました。
新しい道徳は、この段階から脱却しなければなりません。
授業者の納得感によって、板書を決めるのです。
「正解」ではなく「納得解」を探すのです。
日本人は、正解を追い求めることは得意ですが、
納得解を追い求めることは苦手です。
ゲームで例えるなら、答えのあるジグソーパズルは得意ですが、
答えも見本もないレゴブロックは苦手、という感じです。
しかし、私が提唱する「令和道徳」は、新時代の道徳です。
授業者も、新しい道徳を追い求めてほしいと思います。
とはいっても難しいことをする必要はありません。
「指導書を信じ切らない」と自分に言い聞かせるだけです。
指導書は、あなたの目の前の子どものことを知りません。
指導書は、あなたの今の気持ちを知りません。
授業者が、今の子どもにとって必要なことを、
「この板書でやってみようかな。」と計画する。
それが正解なのです。
学校で子どもと一番長い時間接しているのは、担任です。
その担任というフィルターを通して、板書を考えたのですから、
それがまさしく、「実態に即している」ものなのです。
3 余白をあえて残す。
道徳の授業は、結論がある程度見えています。
「ある程度」としたのは、
子どもの授業中の発想は、予想してもしきれないものだからです。
子どもの柔軟な発想を受け止めて授業をするには、
ガチガチの板書計画よりも、
余白のあるスカスカの板書計画の方がよいのです。
なぜなら、余白があると、子どもの考えを書くスペースが増えるからです。
授業者が事前に考える板書計画は、あくまで「計画」です。
途中で軌道修正を迫られたり、想定外の部分の考えが広がったりすることは、
日常茶飯事です。よく「授業の脱線」と言いますね。
むしろ、その「脱線」を、道徳では歓迎すべきです。
道徳は、個人の価値観や経験が意見の後ろ盾になるものです。
授業者が想定している枠を出ずに、授業を終えることができるはずありません。
できるとすれば、予言者です。
それほど、道徳の展開は柔軟ですし、柔軟に対応するべきなのです。
脱線を恐れることはありません。
子どもは、授業者が思っている以上に、
脱線を恐れて授業の本線に戻ってきます。
子どもの世界に身を委ねてみましょう。
授業者は、黒板に余白を残して、どんと構えておくのです。
4 同じ教材でも板書は異なる。
最後に、大切な考え方をお伝えします。
同じ教材でも、板書は異なります。
ということは、隣のクラスの先生が
ある教材である板書をして授業をしたとします。
自分も、それを参考に板書計画を作って授業をしてみました。
なんだかうまくいきません。
子どもの思考は広がらないし、授業者自身も違和感がある。
そんな経験はありませんか?
それはある意味では、当然と言えます。
同じ教材でも、子どもと授業者が違えば、
板書(他にも発問や授業展開)は変わって当然だからです。
小学校でよくある経験は次のようなものです。
A先生は、去年4年生を担任です。
道徳「くずれ落ちた段ボール箱」の授業をして、
自分なりに手応えがありました。
そして今年、同じく4年生を担任しました。
昨年もうまくいった「くずれ落ちた段ボール箱」を
授業してみましたが、なんだか去年のようにうまくいく感覚がありません。
これはある意味、当然と言えます。
教材、授業者は同じですが、子どもが違うのですから。
子どもの集団が違えば、価値観が違います。
価値観が違えば、表出する意見も違います。
それぐらい、道徳は「同じ」がないのです。
子ども、教材、授業者。
どれか1つでも違えば、道徳の授業はカメレオンのように変化します。
授業者は、そういうものだという認識に転換することが、大切なのかもしれません。
「今年の子は、去年の子に比べてあまり発表しないなあ。」
と比較することは、ダメとは言いませんが、
あまりオススメしません。
子どもが違えば、授業の内容が違うのは当たり前なのですから。
去年は去年、今年は今年、と目の前の子どもを等身大で見られる
そんな教師でありたいですね。
はい、ということで今日は「道徳のイイ板書づくり4つのポイント」というテーマでお話ししました。
1 板書を完成させることが目的ではない。
2 教材,子どもの実態,授業者の納得感によって決める。
3 余白をあえて残す。
4 同じ教材でも板書は異なる。
意識して、板書を考えてみてくださいね!