こんにちは。
今日は「板書のために発問してはいけない」
というテーマでお話しします。
目次です。
1 板書はなんのため?
2 板書のためのための発問は×
3 発問のための板書は○
順にお話しします。
1 板書はなんのため?
授業では黒板にチョークで学習内容を書きます。
では、あなたは、何のために黒板に字を書くのか、答えられますか?
黒板に字を書くことを「板書」と言いますね。
板書は、何のためにするのでしょうか。
子どもの学習の内容を整理して分かりやすくするためのもの、でしょうか。
それならば、子どもの意見など聞かず、
先生がスラスラと事前に立てた板書計画をもとにして、
一方的に板書していいのではないでしょうか。
そう言われると、違う気がしますね。
2 板書のためのための発問は×
今日、なぜこのようなテーマで話したかというと、
板書のために発問をするという意識の実践を
時々見かけるからです。
授業者が考えたい板書計画から外れることなく、
想定していた子どもの発表を求めます。
・もっと他の言い方はないかな?
・~だと、自分ならどんな気持ちになりますか?
・○○すると、みんなはどんな気持ちになりますか?
などと、答えが決まっていることを聞き、
ある意味では、「それ以外は認めない」考えに陥ってしまいます。
これでは、子どもの思考の広がりは期待できないですし、
多面的・多角的な見方を伸ばすことは難しいでしょう。
板書を完成させるために、子どもに発問をすることは、
ジグソーパズルのピースを当てはめて、
完成というゴールに走らせているだけなのです。
道徳に正解はない、と言われますが、
これでは「正解!」「間違い!」と思わず言ってしまいそうですね。
3 発問のための板書は○
板書のための発問にならないためには、
逆の発想が必要です。
『発問のための板書』にしましょう。
発問と子どもの思考ありきで、板書は状況に応じて、柔軟に変えていけばいいのです。
板書は、子どもの思考を促すためのメモです。
仕事をするときに、メモ帳や付箋に、メモをしますよね。
あのイメージで板書をするのです。
子どもの意見が出たら、とりあえずどこかに書いておく。
授業が展開していくと、
・子ども同士の意見がつながって1つの言葉にまとめられる
・授業者も、発表された時点ではピンとこなかった意見がしっくりくる
・後で考える発問となりうる
など、柔軟に授業を展開できるようになるのです。
つまり、道徳の授業は規定路線では絶対に進みません。
授業者の事前の想定を大きく越えてくるのが
子どもの柔軟な思考ですし、
大勢で話し合うことの醍醐味だからです。
板書については、今後もお話ししていきます。
まずは、
「発問のための板書」であると
意識を変えてみましょう。
授業後に、美しい板書を仕上げることが目的ではないのです。
子どもと一緒に授業者も、
汗をかきながら黒板に消したり書いたりして、
思考の後が残る方が、
短冊や挿し絵が並んだ板書よりも、
学びが多いと感じられるのは
私だけでしょうか。
板書について、一緒に考えていきましょう!