特別の教科 道徳

道徳は「教える」ではなく「気付く」

気付く道徳

こんにちは。
今日は『道徳は「教える」ではなく「気付く」』というテーマでお話しします。

道徳の授業って難しいですよね。
子どもに何を聞けばいいのか。
授業はどう組み立てればいいのか。
などなど、疑問は山ほど出てきます。

今日の話は、道徳の根幹に関わる部分ですので、
読むことで、考え方の大きな転換をするかもしれません。

目次です。

1 道徳は「教える」教科ではない

これが、一番大きな事実です。
道徳という言葉は、社会でも時々使われます。
「道徳性が自分はないから。」
「非道徳な行動だ!」
などなど、道徳という言葉は使ってもある程度通じます。

この言葉の裏には、
「学校で正しい道徳を習っていないから、自分は常識や礼儀がない。」
という、自分の受けてきた教育を謙虚に受け止める意識が見え隠れします。

そもそも、道徳は「教える」、つまり「教えられる」教科ではありません。
知識を蓄えたり、その知識をテストなどで測る教科ではありません。

電車ではお年寄りに席を譲る、
上司を敬わなくてはならない、
挨拶をすることはいいことだ、
といったように
どんな出来事にも「一般的な正解」があると人は盲信しています。

しかし、若者でも体調が悪い日は電車で座っておきたいし、
上司といえど敬うレベルに値しない人もいます。
挨拶は、近所の人でも顔を見ても、しない人がいるのは事実です。

しかし、「道徳」という正しい理想があり、
それを体現することが正解なのだと盲信しているから、
人と比較して悩んだり、理想の姿とのギャップを感じて落ち込んだり、
必要のないことでモヤモヤするのです。

道徳に正解はありません。あるのは納得解です。
納得解は、時と場によって変わります。
子どもが変われば、結論は変わります。
授業者が変われば、結論は変わります。
「教える」の主語は教師です。
道徳は、教師が正解を「教える」教科ではないのです。
ましてや、教師にとっての納得解を教えても、
子どもは答えを教えられていることに変わりありません。

2 道徳は「気付く」教科

では、道徳はどんな教科なのか。
ズバリ、「気付く」教科です。
「気付く」の主語は子どもです。

教材を読んで、教師の発問によって、
今まで当たり前だと思っていたことに
「あれ? なんだか違う気がするぞ。」と感じて、
もう一度考え始める。(価値の再構築)

これは、教えられているのではありません。
「あれ?」と自らの課題に「気付く」ことで、
考えたいという意欲がわき、
自然に自分なりの答えを導きだそうとするのです。

人は、気付いたらじっくり考えたくなります。
人は、考えたら他人の考えを聞きたくなります。
人は、考えたら言いたくなります。

この人間の心理を突くことが、
道徳でよく使われる表現である『心を耕す』ことなのです。

「人には優しくしましょう」と教えられる授業と、
「人に優しくしたらどんないいことがあるの?」と考えて気付く授業、
どちらが子どもにとって学びが大きいでしょうか?

後者であることは、間違いないですね。
しかし、気をつけないとすぐに「教える」意識になってしまいます。

 

3 道徳は「気付く」授業をつくる

道徳は「教師が教える」のではなく「子どもが気付く」教科です。
今日の話で提案したいことは、
「気付く」授業を作りましょう、ということです。

ともすると、授業計画の段階で、
・○○と言わせよう。
・□□さんがきっと言うだろう。
・まとめは△△という言葉にしよう。
と決めていませんか。

これは、特定の言葉で子どもの思考を縛っていることになり、
「教える」授業になっていると言えます。

そうではなく、
・○○と聞いたら、どんなことを言うだろう。(クラス全体の視点が広がるだろうか。)
・□□さんは、この発問はどう答えるだろ。(子ども個人の視点は広がるだろうか。)
・まとめは、△△ということに気付いていればいい。

と、ある意味ではファジーに授業計画を立てておくことが、
道徳では必要です。
他の教科と同じように、予想される発問やまとめの言葉をガチガチに決めておく必要はありません。
道徳は「特別の教科」なのですから。

教材をとおして、教師も一学習者として内容項目にぶつかり、
新しい視点や価値観、見方に「気付く」授業を展開していきましょう。

「じゃあどうやって、子どもが気付く授業をすればいいんですか?」
これまで道徳の授業づくりに関する投稿をしていますので、
そちらをご覧ください!

「教える」から「気付く」への転換をしましょう!
きっと道徳が楽しくなりますよ。